青問は生活問
クイズ用語集の編纂をしているとき「生活問」という語を追加した。改めて調べてみると一般にはそれほど使われていない言葉であるらしい。
生活問とはテレビ番組に関する情報、ファッション、世間一般における流行、そのほか「一般に生活している範囲で得るような知識」を問う問題であり、しばしばクイズプレイヤーよりもクイズと無縁の一般人のほうがよく知っていたりするものだ。身内ではこうした問題を得意とする人々を「生活をしている」などと表現する。
なぜこんな語がわざわざ生まれるのか。裏を返せば、クイズで問われる知識の多くが生活の中で得たものではない、ということだ。
競技クイズの界隈では「内輪化に対する懸念」といった話題が有識者により盛んに取り沙汰されている。クイズの問題にしやすい知識や界隈に周知された知識などに出題が偏り、プレイヤーはそうした作問傾向を前提として予習するようになる。またこうした競技クイズ特有の作問傾向を解答者として受けてきたプレイヤーが今度は作問者として似たような問題を生み出してポジティブフィードバックを発生させていく。いわゆるベタ問(極めて頻出の問題)はその極致だと言えるだろう。競技クイズに限らず全ての文化はフラクタルである。
日本だけでなく英語圏における競技クイズのQuiz Bowlでもこの問題意識は共通しており、「Real knowledge / Fake knowledge」(本当の知識と偽の知識)という強い言葉で提起されている。クイズの過去問からクイズの対策をする過学習が効率の良い勉強法として通用し、真面目な競技者たちはAnki(学習用ツール)に入れて記憶するために問題集を買い求める。
実際には1ページも読んだことのない『檸檬』を「えたいの知れない…」とだけ聞いて正解し、カーリングの試合なんて見たこともないのに「ストーンの標的となる円形の的」が「ハウス」と呼ばれることは知っている。これらはFake knowledgeに過ぎず、クイズに正解できることと物を知っていることは別なのだ、という後ろ暗い気持ちがプレイヤーのどこかにある。
そうした反動として生活問が問うているような、クイズのために学んだ知識ではないものが活かされることをどこか理想の一つとする傾向さえある。クイズを題材とした有名作『君のクイズ』などで何気ない生活のなかで見聞きした知識がクイズで偶然に活きる、という展開が描かれがちなのは単に作劇上の効果のためだけでなく、それが理想でもあるからではないか。
青問というサンクチュアリ
さて、「競技クイズがどうあるべきか」などという難しい議論は斯界の前途を真剣に案じる人々に委ねるとして、気楽な立場の自分がふと思ったことがある。それは「青問(アニメやゲームなどに関する問題)には案外こうした課題が少なく、言ってみればReal knowledgeを問われていることが多いのではないか」ということだ。青問を趣味性の高いジャンルの問題と言い換えても良い。
青問ジャンルに特化した問題群は競技クイズのメインストリームではなく、問われる内容がディープであるほど予習に掛かるコストは膨らみ、得られるメリットは小さくなる。青問が読まれる場では多くの人々は過去に読まれたクイズの中で得た知識やクイズのために予習した知識でもってボタンを押すのではなく、自分がその作品を楽しく読んだり遊んだ日々の記憶から押すのである。
もしもそうしたファンに対して純粋なクイズの競技者が優位を得ようとすれば見返りの薄い膨大な投資を要する。しばしば界隈で議論される「問題文の定型化やそれに伴う対策のしやすさ」といった課題は青問というサンクチュアリにおいてはごく自然な形でクリアできているのかもしれない。
自分が好きな作品や記憶に残っている知識をもとに青問を作り出し、解答者とその知識と経験を人生のなかで共有できていることを確かめて楽しむ。青問はクイズと呼ばれるものの中でも比較的に素朴な遊びであり、対策からではなく日常の知識から育てられるクイズであり、そうした意味で青問とはまさに生活問なのだ。オタクにとっては、だが。
